けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

わたしにとってあなたが これほど大きな存在であるわけは あなたが はじめて わたしの姿をとらえてくれたひとだからだ。あなたがわたしをみつけてくれるまで わたしはとうめいで わたしは自分のかたちをしらず わたしはそこにいなかった。あなたはわたしにこ…

甘辛い煮物

最近、食材を酒と砂糖としょう油で煮てばかりいる。鶏のレバーや芋や根菜が安いから、というのが実質的な理由だけれど、 なにしろ、甘辛く煮つけておけば日持ちするので便利だし、 この味付けは白米とパンどちらに合せてもだいたい美味しくいただける。 作り…

封筒とメモ

彼の夢を見た日は、感傷的な気分ではじまる。 ほんとうは因果関係は逆で、疲れて感傷的になっているから彼の夢を見るのだと思う。記憶のほころびから漏れ出した感情の断片が、ありもしなかった物語を紡いで映し出していく。封筒が届き、中から彼のメモが出て…

始めて自分の言葉を、伝えたかったかたちで相手に渡せたような気がする。今までずっと、彼らと同じ国で生まれ育ち、共通の言葉をはなしていたつもりだったけれど、私はひとり異国の言葉をはなしていたのだろうか。

ひとつの場所に長くいられないのは、自分の中身を覗かれたくないからだ。 自分で嫌気がさしているこの不完全さを、誰の記憶にも記述されたくないからだ。 自分でもうまく理解できない私のことを、知ってほしくないからだ。完全に理解されたいという欲求が、…

これまで、誰かに頼みごとをしたり、ものを訊ねたり、自分が作ったものを見せる、などの行為につきまとっていた緊張感が薄れてきた。 息がしやすい。とても。断られてもいいし、否定されてもいい。それは大きな問題ではない。 ということは、うっすらとわか…

”新しい場所”というのは得意だとおもっていたけれど、そうでもない。 こんなにすぐに不適応の吐き気がするのは初めてだと思う。自分の首を自分たちの手で絞めていることに気づいていながら、その手を緩めることができずにいる人々の中で。

M.K.

それは、100年前に異国の山岳地帯を探索した研究者が書いた文章だ。 彼は発見の地に至るまでの道のりをただ示すのではなく、見える景色や肌に感じる空気について淡々と克明に描写している。 落ち着き払ったような顔をして、そのじつ動悸が早まるのを必死で抑…

自分のための料理

誰かのために作る料理はドキドキして苦手だけど、自分のために作る料理は、作っている時間も含めて好きだ。 素材を自分の好きな味つけにして食べるというのは、なんという贅沢だろうとおもう。 冷蔵庫のあり合わせをレンジで加熱するだけで済む料理も、すこ…

このごろ、内側と外側がつながってしまう。 外側のすべてが内側の投影なのだとしたら、私はついに私から逃れることができない。外側で起る現象の無意味さを信じている。 過剰な意味づけは”そのもの”から離れていく行為だとおもっている。 それは、あくまで私…

表情から逃げたい

表情のわかる生き物が苦手だ。 何であれ、他者の表情に自分の心が簡単に揺さぶられてしまう、という状態が心地よくない。それがはっきりと言語化されたのは、外のベンチでごはんを食べているときに野良猫がすりよってきたときで、私は彼らの視線から逃げたい…

脱皮する。 それまで自分自身を覆う表皮であった殻を棄て、 姿かたちを変え、ときに呼吸方法すら変えて、あるステージから離脱し、別の環境へ適応する。脱皮という行為はなにしろ無防備に見える。 あたらしい表皮は脆くやわらかだ。 古い表皮にとらわれて身…

苦痛でしかたのないあの視線、あのまなざしは、私が私自身の視線を相手に投射して、自分を見ているのではないか。絶えず私を見つめているのが私自身の目であるならば、私が私にとってよい存在にならない限り、いくら環境を変えようと、私はこの不安を抱き続…

自分の名前を口にするとき、それが何を意味するのか、わからないような気分になるときがある。 自分の名前だけじゃない。 あらゆるモノゴトから、名前が、ことばが、失われていく感覚。

終わらせるつもりは、あった。 終わらせたいという気持ちも、あった。 けれど、途中でひどく疲れてしまって、終わらせるのに必要な気合みたいなものはどこを探してもみつからなくなってしまった。 予定されていた仕事を、自動的に終える仕組みも整えていなか…

隔てるもの

この空間にはわたしたちが”死”と呼ぶものが充満している、というより、死そのものがこの空間である。 わたしは、その空間に浮遊する閉じられた構造物だ。 いつしか組み立てられた構造の内側を、わたしは”わたし”と呼んでいる。わたしと死はいつも隣り合って…

電話をとる。ハキハキとした大きな声で名前を確認されて、耳に圧力を感じる。電話の向こうにいる知らない人に耳から侵略されているような気持ちになる。事務的な会話を続ける。定型文が流れ込んでくる。その丁寧な言葉遣いを反芻しながら、私は私のかすかな…

瞼の表皮が乾燥して剥がれ落ちてくる。 口の周りに赤黒い吹き出物ができる。私という容れものの中で、形を持たずにドロドロと渦巻いていたものたちが、とうとう溢れ出してくる。腐食の進んだ表皮は全体的にぼろぼろで、この赤黒い膨らみをつまんで潰せば、私…

私は常に他者から何かを受け取って生きている。受け取り続けている、といってもいいくらいだ。 私は他者に渡し続けているのだろうか。 やりとりの収支がひどく気になる。

拳銃を突きつけられる夢を見た。 誰かが手のひらサイズのおもちゃみたいな拳銃を渡してくれたが、私はそれを丁寧に断って、両手に出刃包丁をひとつずつ構えて応戦することにした。 拳銃を構えた人が窓の方から次々とやってくる。先頭を走る二人の顔を私は知…

死のありか

死は特定の場所にいるものではない 死はあらゆる小道に立っている 私たちが生を見捨てるやいなや 死は君の中にも私の中にも入りこむ『老いてゆく中で』より ヘルマン・ヘッセ

ことばによってカタチを得たものはわたしではなく、わたしの抜け殻だ。 延々と脱皮を続け、抜け殻を数珠つなぎにすることで、わたしはわたしの存在をわたしに示そうとする。 わたしが存在するための機関を動かすために、わたしは幼若であり続けなければなら…

自分のカタチをした穴に、すっぽりと嵌まり込んでしまったみたいに身動きがとれない日 笑ってやり過ごすにはしんどくて、電話の着信もきかなかったことにしたい日

物語は自動的に生成されるのだ。だから、あなたには その物語をひとりで背負い込む理由なんてない。

もういいな、と思う。 もう、終わりにしてもいいんじゃないか。

自分の存在を否定するために、 自分について描かれた本のいっさいを捨てようとした。きちんと区切りをつけずに、 栞もはさまないで、私は本を閉じてしまった。 物語の中にあなたを置き去りにしたまま。

あなたから盗み取ったあなたの一部を 私は死ぬまでに 返すことができるだろうか

手紙をかくこと

私はなんとなく、紙とペンを使って手紙を書くことが好きだ。 いまこの空間を共有していない誰かに、いまここにいる私が書くことばが伝わる。 そのことが、不思議でおもしろいとおもう。ここにいない相手に、時空をまたいで伝えたいことがあって、 宛名に書い…

それを呪いにするか、祈りにするかは、ことばの選び方ひとつだ。 それを私の中に留めている限りは。 「こたえあわせ」をするまでは。

その眼を差し出し扉を開け 以後の世界に遷移せよ変化が怖いか 過去を見つめるその眼球を失うことを躊躇うか 以後の存在になることを拒むのかいかなる過去も消えはしない 過去を見る眼を差し出して 何度、その境界を越えたとしても 語られたものは、その形を…