笑顔がもたらすさみしさ
責任感
また失敗をした。
その過程で自分が周りにかけた迷惑を思うと、本当に自分が嫌で嫌でしょうがない。
自分のせいだと思いながら、誰かのせいだとも思いたい、そういう中途半端な気持ちがなおさら嫌だ。
ここには失敗の記録ばかりが降り積もってゆくけれど、私は嫌なことを忘れやすい性質で、本当に思出せなくなってしまうから、少なくとも教訓だけは忘れないようにここに書いておく。
チームでプレゼン作成と原稿作成をする仕事があり、プレゼンパートの仕切りと発表を私が担当すると決まっていた。締め切りは現行よりもプレゼンの方が早かったから、いったんチームメンバーはプレゼンパートの手伝いに時間を割いてくれた。
そして、作業はだんだん自分の手からみんなの手に移っていった。
私がたたき台を作ったスライドは、デザインが得意な人によって修正されていった。
私が作った台本は、内容をより正確に理解している人によって詳細情報が付け加えられていった。
私はそこで勘違いをしてしまった。誰かがやってくれる、と勘違いしてしまった。
最終的にそのプレゼン資料で話すのは私なのだから、私が話しやすいようにスライドを編集し、台本を改定するべきだった。少なくとも、そのパートの責任者は私なのだから、私が責任をもてるものを作るべきだった。
それなのに、自分のデザインセンスにも知識にも自信がない、という言い訳をして他者にゆだねてしまった。責任を放棄してしまったのだ。
自分に任されたことを、責任をもって全うする。当たり前のことだ。
最終目標の設定は間違いなく「そのスライドで自分が話せること」だった。
でもできなかった。
あまつさえ、途中でサポートしてくれたメンバーが状況を混乱させた、と思おうとした。そんな自分が最低で嫌になる。
どうしたらいいだろう。
自分の責任の範囲を確認する。時間に余裕をもって行い、途中で理解があっているかどうかを周囲に確認する。そしてその責任を全うする。
ばかばかしいくらい当たり前のことだ。だけどそれくらいしか思いつかない。
やってみるしかない。
「今の状況から変化できるのだ」ということを、自分で自分に証明するしかない。
さあ、やろう。
失敗の記録
先日、仕事で大きな失敗をしてしまい、情けなさや悔しい気持ちを覚えておきたいから書く。
失敗の原因は自分の力量の勘違いと準備不足だ。
その仕事で求められるアウトプットに対して、自分の知識や能力は圧倒的に足りていなかった。結果、相手が必要としている成果物を提供できなかった。
仕事を受けるとき、そのことは自分でも薄々気づいていたが、なんとかなると考えてしまった。なにより仕事を発注してくれたことがうれしくて、舞い上がってしまった。
私は自信がもてない成果物を提供することになり、相手の時間を無駄にし、私自身の信用を損なうことになった。
自分の知識や能力が足りていないと感じた時点で、私は正直に事情を話して辞退し、適任者を紹介するべきだったのだ。一度仕事を引き受けた手前、辞退するのは責任感のなさを露呈するようではばかられたが、それは見栄ではなかったか?
上司に相談することもできたはずだ。そんなことも考えつかず、勝手に判断して失敗した。
私は愚かだった。見栄をはっている場合ではなかった。撤退がただしいときもある。
もうひとつの根本的な問題は、私の知識不足だ。
いまの職場で求められている、あたりまえの知識が私には足りていない。よく知らずにやってこれたな。恥ずかしい。本当に恥ずかしくて、あの失敗を起こした現場を思い出すだけで心臓が締め付けられるようだ。
もう仕事は回ってこないかもしれないが、それは私が勉強をさぼっていい理由にはならない。だから、いまから必要な知識を増やしていくのだ。いつかどこかで同じような需要が発生したときのために。今度はちゃんとできるように。
知識をアウトプットする経験は、自分の無知をいやでも痛感させられる。
知った気になっていた自分が恥ずかしい。
ひとつずつやろう。
知識を増やす。知識をアウトプットする。体系的に説明しようとする。
相手が求めているものに興味を持つ。自分の政治性を意識する。
成果物のかたちを決める。
さあ、やろう。
もう一度
考えたことを言葉にする練習をしなければいけないな、と思ったのでこの場所をもう一度公開する。
これまで書いた文章も、そういう理由で書いてきたはずだ。でも、読み返してみると感情を吐き出すようなことばが並んでいて、考えは整理されておらず、痛々しい。
今回はできるだけ、思考の整理のためにこの場所を使いたい。
■
頭がヒリヒリする。
3人以上の集団に数時間以上いると、そういう状態になる。
自分の発した言葉を鮮明に覚えている。その場の空気も。
反芻しては、場の空気を悪くしちゃったとか、恥ずかしかったとか、そういうことを考える。代わりに発するべきだった最適そうな言葉を、「正解」を考えてしまう。
彼らは私の言葉に大した意味を見出しているわけではない。
私はその場に居合わせた複数の人間の、その中のひとりだ。
誰かの視線や言葉が、自分の「まっとうでなさ」みたいなものをあぶりだしていくように感じて、私は小さくなっていく。自信がなくなっていく。
その場に「ただ在ること」が、ひどく難しい。
これは私の問題だ。
私の価値基準。私が信じる、まっとうさ、みたいなものの在処。
それを持たないままでは、私の器はいつもヒビだらけで、どんな水も入らない。
私はどうありたいのか。私は何を志向するのか。
私を見てほしい、あるいは私の存在を受け入れてほしい、と
私を見ないでほしい、私の存在を捻じ曲げてほしい、が混在する。
それは、どこかに絶対的な正しさがあると思うから。
絶対的な正しさなんてないと、口では言っているくせに
自分はそれを追い求めて、自分の在り様を決めかねている。
誰にでも適合するような万能な正しさを求めている。
だからいつも他者の視線が気になって、観測すべき人の数が増えるとパンクして、ヒリヒリする。
■
器の強度を上げないと、拾い集めたいことばがこぼれてしまう。
器に入りきらないことばは毒になる。
毒は最初から毒なのではない。
降ってくる瞬間は他のことばたちと同じように輝いて私を勇気づけてくれるのに、それは器からこぼれ落ちた途端に強い毒になる。
私の器はもろいから、すぐに壊れてしまう。
毎日のように粉々になった破片を集めてなんとか形を保っている。
昨日の器と同じような形をしているけれど、同じものではない。
■
亡霊が消えてゆく。
ゆるされたいと思うことをやめたときから亡霊の影は薄い。
ゆるされるかどうかは問題ではない。
それは私の意思でどうにかできることではない。
私と私の近くにいる人々の生死に直結しないならば、恨まれ、憎まれ、生きればよい。
ゆるされたか、ゆるされないか
憎まれているか、恨まれているか
それは確かめなければわからない。
確かめるつもりはない。
このまま白黒はっきりつけないまま行こう。
いずれ白黒はっきりする日が来たら、
そのとき見えた色、それを受け止めよう。
全ては流れる。
同じカタチをした感情はなく、今この瞬間も変わり続ける。
おぼろげに見えている一秒先に向かって足を踏み出す。
そのとき、あなたが、そして私が何色をしているかなんて
誰も知らない。