けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

ひとつの光景

私が「このような人間である」ということを、周囲の人々はわりあい自然に受け止めてくれていた。

それを否定したり、蔑んだりする人はどこにもいなかった。
むしろ、欠点となる部分を指摘して、どうしたら社会生活をより円滑に営めるのかについて助言をくれた人がいる。
あなたはそういう風にできてるんだから、それでいいんだよ
そう言った人がいる。
そうであることを嫌がって、いつまでも認めないでいたのは、どうやら自分だけだ。

高く掲げた理想像に追いつかない現実の自分から目をそらして、いろんなことができなかったり諦めたりして。そうやって自分を傷つけて勝手に苦しんでいる。
像は方向を知るためにあるのであって、比べるためにあるのではない。
理想像なんていう現実の自分とは別の次元に存在しているかもしれないものは、そもそも比較対象として適切でない。
そのことに気付くためには、諦めたり、捨てたり、手放したり、分解したりする作業が必要で、ずいぶん時間をかけたものだとおもう。

これまで、私の一番の理解者は私自身だと信じて疑わなかったけど、どうやらそうではない。
私がいままで自分だと思っていたものは、私の内側から見た私だけだった。それだけが私だと思っていた。
私は社会と接続しながら生きていて、その接続点の数だけ私の顔があり、そこに現れる私の姿や性質は、他者のほうがよっぽどよく理解している。
そして、そうやって他者に受け容れられながら存在する顔たちも、間違いなく私なのだ。

今後、きっと何回も躓くのだし、許容量を超えた感情がまとわりついて落ち込むし、動揺するし、悩んで迷子になったりする。
そのような自分を「そういう風にできてるんだよねぇ」といいながらさっさと認めて、「またやっちゃったなぁ」って頭を掻きながら、余計な感情を払い落としたり、噛み砕いて飲み込んだり、誰かと笑い飛ばしたりして、私を受け止めてくれる人たちと一緒に生きていく

というのが、今の私に見ることができるひとつの幸福のかたちだ。