けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

記憶の上書き保存

意識的に、あるいは無意識的に、記憶は上書きされ続けて、あったこと、と、なかったこと、の境目が曖昧になる。

だから、あの瞬間の映像や音声を映画のように再生したとして、
私の都合のいいように捻じ曲げられてしまった再現映像はもう真実とはいえない。
それはもう、フィクションだ。
再現映像の中に染みのように点々とちりばめられた強い感情は、ビーコンのように絶えず点滅し、記憶をくり返し呼び起こす。記憶自身が地層のなかでゆっくりと分解されていくことを怖れて、必死に存在を主張しているみたいだ。
私は急き立てられるように、堆積した記憶の層からその記憶を引きずりだし、再生された映像を最新の記憶として上書き保存する。

あるいは、こうも言える。
記憶の上書きを続けた先で、記憶は(正確性を証明できない)細部によって補完されてゆき、やがて矛盾のないひとつの物語になる。

座りの良い場所を見つけた記憶は、もう分解され消滅する心配をしなくていいとでもいうように、ようやくビーコンの点滅をやめておとなしくなる。


ということを思って、これは以前に読んだ長田弘の言葉が再生されているのだなと気づく。

ひとの記憶は、しばしば「あったこと」の記憶の中にはいりこむ「なかったこと」によって歪められ、確かめようもない「なかったこと」によって不確かにされている。(長田弘「感受性の領分」)

きっと自分が思っている以上に、誰かのことばを自分のことばのように再生しているときがある。それは、誰かのことばがようやく腑に落ちたということと、引用元の誰かと自分の境目がわからなくなってしまっている可能性を同時に示している。
何かを思うとき、そこに現れた自分の感覚と、それを導いた体験や誰かのことばの存在を、同じように大事にしたいとおもう。

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映画の主題は、
「ゆるされたい」
そして
「私はあなたになりたかった」