けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

日記の断片を見つける。
これを反芻することは、私が今立つ場所を確認する作業でもある。
道に迷ったときに地図を見直すように、私は過去の自分が書き残した物を何度でも見直して、自分の居場所を確認する。
そこにいる過去の自分の思考が痛々しくても、賛同できなくても、そこにあった自分を見つめる。

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憑きものを落とすような日々が続く。
昨日は母に電話をして、今までため込んでいた感情を爆発させて大泣きした。
自分が彼に対して感じていた理不尽さとか、自分の将来に対する不安とか、取り組む課題に対する素質のなさとか、ひとつひとつ聞いてもらってたくさん泣いた。

自分が無意識のうちに、彼に対して先輩として振る舞おうとしていることに気づいた。
近い分野で仕事をする彼に対して、彼より上手にやらなきゃ、とか、彼のわがままに対して寛容でなければ、と。向いていないことは向いていないのだし、できないことはできない。馬鹿にするならすればいい。
日々の生活の中で納得できないことはあるのだし、それを伝えないままにして嘆くのは怠慢だ。自分の抱える不安も全部、伝えよう。そのうえで、彼と一緒にいるべきかどうかを判断しよう。

今日は指導教官と話して、先生が20代で体験したことをきいた。
どんな仕事をしていても、この先同じように落ち込むことがある。「でも、どれだけそれを楽しめるか、が大事です」と先生は言った。
「あなたはソレに向いていなというけれど、」と先生は続けた。
営業マンになることだってできたはずだ、でも「なにかの縁があってここまできたんでしょう?」と。
私がここに導いたのは、運と縁、それだけだ。

「あなたは、東京に行って、前の指導教官のもとで同じことを続けようとしている」
「ここに来たときだって、あなたは以前の仕事を終えなければならない、というプレッシャーや焦りがあったんでしょう?」
先生は、私には見えていなかった私のことを指摘した。
私には、ソレをやらなきゃいけない、という呪いがかかっていたのかもしれない。
「別に、ソレをやらなきゃいけないわけじゃない。なんだっていいんですよ。あんまり外れた分野だと無理かもしれないですけど」
私は自分で自分のことをがんじがらめにして、苦しんでいたのか。

なぜ、ソレこだわったのか。
それは、”何者か”であるために簡単に手に入る飾りだったから。
あまり人が興味を示さない分野で、だけどそれなりに人手が必要で、私は素人だったけど人手不足のために重宝されて、簡単に何者かになれた。
たったそれだけ。