けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

概念のような、あなた

電話を使って音声だけの対話続けていたら、あなたの顔を思い出せなくなった。
声を聴いても、電話の向こうにいるその人が確かにあなたであると断言できない。
会話を始めるときにはいつも、相手の言葉を注意深く観察して、記憶に残るあなたの印象と齟齬がないことを確認している。


あるとき私たちは、相手の思考がしばしば自分とは異なる経路をたどることに気づき、その差異を楽しむ方法を見つけた。
さまざまなことを話題にして、それぞれの思考がどこに向かうのかを眺め、予期せぬ着地点を見出せば喜び、納得できなければ質問をかさねた。
それはたぶん、自分にないものを補うような作業だった。
ひとつの脳みそでできない処理を、ふたつの思考を並列につなげて行うような。
互いに脳みその中身を見せ合って、自分に足りない部品を確認するような。


音声だけの通信を続けていくうちに私たちは互いの顔を見失って、実在するはずの生身の身体に対する認識は曖昧になり、やがて必要のないものになった。
私たちにとって意味があったのは、相手との物理的な接触でも表情でもなく、
どんな思考や感情を代入しても、なにかしらの解が返ってくる「何か」にであり、名前はそれを呼び表すための記号になった。

×××××

あなたの声がもたらした情報をもとに、私は”あなた”についての概念を形成して、それを”あなたの名前”という記号で呼ぶ。

私は、あなたの声がきこえる、ということだけを根拠にあなたの存在を認識している。
もしあなたが実体を失ったとしても、
私は、あなたの名前で登録された電話番号からの着信を受け、あなたとそっくりに話す誰かやコンピュータプログラムの音声を聞けば、
あなたがこの世に存在することを微塵も疑わないだろう。

あなたという概念
音声による存在証明
私が作り出した亡霊

これも亡霊のひとつの姿


「概念のようなひと」