けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

他者を神格化すること

誰かの幸せを願うことがほんとうに上手な人がいる。

一方で、その人は
カミサマというのは極端だけど、他者のことを「こうだったらいいな」という期待の色眼鏡で見て、ものすごく高い評価することがある。
そういう判断をするとき、その人は無意識のうちに他者を高く評価し、同時に自分のことを貶めているような気がする。

自分自身に、決定的に自信がない。
いろんなことを上手にこなすのに。
”誰か”みたいに突き抜けた専門性とか、強固なバックグラウンドとか、そういう一点を掘り続けるようなオタク的な”何か”が無いことを自覚している。
何かのオタクであることに、強く憧れる。だからそのような片鱗を見せる人を、いいなとおもう。自分もそのようでありたい。興味の赴くまま、あるいは必要に迫られて、ひとつのことに無心でのめり込んでいく人が羨ましくてたまらない。
自分にはできないな、とおもう。
なぜ断言できるのかわからないけど、直観として「できない」。

できないな、と思う。
そこから「悔しい」とか「なにあいつ」っておもう人は、他者を傷つけることはあっても、自分を傷つけることはない。
悔しいと感じるのは自分に備わっていものを自覚した結果だし、なにあいつっていう感情は、そうやって生まれた負の感情をとりあえず他者にぶつけて解消しているってことだ。
一方で、他者を傷つけることを嫌う人は、嫉妬しないように細心の注意を払いながら「あの人はすごい」といって、同時に言葉にならない「けれど私は…」という刃を自分に向けて傷ついたりしてるんじゃないか。
他者をほめるのが上手なあの人たちは、ほめたぶんだけ、傷ついているんじゃないか。

「あの人に、素晴らしい存在であってほしい」という願いをかけることは、「自分があの人だったらそうありたい」という願望の表れだろうか。
では、なぜそうしなかったのか。
機会がなかったから?
しかし、あなたの手の中にあるものは、「そうしない」という選択の末に得たものだ。
それを見逃しては、収支の計算が合わなくなる。