けものがゆく道のむこう

いいにおいがする方へ かすかな気配をたどる道

感情を記載する

あるモノゴトに対して、自分が何を感じているのかを即座に言葉にできない。何も感じない(反応がない)わけではない。体内にエネルギーの塊が発生するが、その場で他者にわかるように描写することができない。
塊には名前がない。だから、それを何と呼ぶべきかわからない。

それは名前を付与しない限り、ずっと身体の中にあり続けて、無意識に認知リソースが割かれていく。するとリソースが足りなくなって五感がひどく鈍く重くなる。
だから認知リソースを確保するために、塊の処理をする。それは、感情とも呼べないような質量の塊を持ち帰り、解剖してカタチを記述していく作業だ。

塊を腑分けして、それが発生するに至った過程を知るために記憶を辿り、ひとつひとつを記述していく。このようなことが起こると悲しいとか、苦しいとか、切り分けた塊に名前をつけて、後で似たような塊を見た時にそれとわかるように、きちんと言葉で描写する。
そうやって、塊に内包された身体感覚と、絡まりあった時間的、空間的な情報をほどいて、並べていく。断片を削いでいくたびに、エネルギーは徐々にスケールダウンして、最後は電池の切れたライトのように静かに消えていく。

いちいちこんな作業をするから、感覚の認知と同定に時間がかかる。というより、時間をかけることに慣れてしまった。だから「今ここで、あなたの気持ちを述べよ」という質問に、とっさに答えるための瞬発力が圧倒的に足りていない。
これまで記述したことのある感情に似ているものならば、ある程度の解像度で説明することができる。けれど、解剖の過程で何度も自己検閲を受け、当たり障りのない言葉の羅列になったそれは、どんな順番で組み立てても、もう塊であったころのような質量を伴わない。記載の過程で、標本の本体はバラバラに解剖されてしまった。もう手元にあるのは精密に描画された何かでしかない。
それを、「あなたの気持ち」に対する回答として口にすることを、いつもためらう。いざ口にすると、その違和感に後悔する。

生に近い状態で言語化すること。